2014年5月4日日曜日

プラットフォーム・コンテンツ、あるいはコミュニティコード論

超会議の話をケースとして書いたので、背景のモデル理解のところをひとつ。■広告効かないという話のもう何度目か分からない解題端的に書くと、市場形成のルールが「モノづくり+広告」という従来パターンから何か変わってきてませんか?という話になる。しばしば言われる広告効かない論は、ネットやスマートフォンが広がったからというデバイスの多様化の話とされてきていたが、どうもそれでは説明がつききらないというかもうちょっと事態は進んでいると考えている。箇条書きにするとこんなところだろうか。・市場規範を知らないと仲間にして貰えない・モノを作る+広告を打つが外側に追いやられたパラダイム・メディアが規範を作っていたところ、ユーザーが自主的に規範を作るようになってきたケースとしてはやはり超会議が分かりよいので前回引いたところを改めて引用しなおすことから。超会議1,2では企業ブースはオマケのような扱いだった。出展側企業はニコニコのことがよく分かっておらず、既存イベントと同じようなブースを構え、そして閑古鳥が鳴いた。彼らを擁護しておくと、展示会イベントというのは「いかに製品をニュースに乗せるか」「いかにサンプリングを配るか」「いかに消費者に製品を体験してもらうか」という概念で作るものなのである。プロモーションなのだから、とにかく商品の魅力をまっとうに訴えねばならないのだ。萌え選挙カーに有権者を乗せて接待してあげるとか、バスケットコートを作るとか、最中アイスなのに進撃の巨人前で縄跳びするとか、意味ないわけですよ! お前ら全然商品PRしてないじゃん! ニュースになっても「面白いですね。ところでそれが何の役に...?」って返されるパターンじゃん! アホか!そう、企業がアホなのである。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン状態なのだ。ユーザーと一緒に参加してお祭り騒ぎをし始めたのだ。全く儲からないのに!超会議1,2のいずれかに参加した方は良く分かるところであるが、企業ブースの方に行くと、急に人がいなくなるという状況がまさに生まれていた。現場的には、会場を端から端まで歩いて眺めようとしていたら、「あ、いかんいかん。こっから先はニコニコ超会議ではない。間違えたのでUターン。」という感じで、企業ブースは別世界扱いとなっていた。これは、広告は押しつけがましいとか言う話ではなく、「ニコニコ的なものを目指してやってきたので、そうじゃないものには興味が無い。だから戻って"踊ってみた"を眺めてよう。」いうところになる。ユーザーからすると押しつけがましい、にさえなっていない。興味ない。見ない。知らない。あるいは、このトーンで本会場にやってきたら、「お前らは無粋だからあっち行ってろ」という空気になっていたやもしれない。■コミュニティコードのプラットフォーム化超会議3で起きていたのは、企業(と商品)が押しなべて駄目というのではなく、場とコミュニティの規範にちゃんと沿うと企業(や商品)もちゃんと仲間に入れて貰えるということでもある。テレビつまんない、と端的な表現があるが、あれは、いわゆる意味で面白い面白くないもあるが、それ以上に「自分たちの規範(コード)に合わない」とのニュアンスも同時に読み取れる。自分たちのコード、との言い方は1世代前だとライフスタイルマーケティングという言い方を良くされていた。ライフスタイルごとに消費パッケージ、好む商品群が異なるというアプローチである。これも、検索するといろんな分類や文化論が出てくるので順に眺めてみると面白い。広告効かない、というのは、このコード生成ロジックが商品情報の出し手側、あるいは商品情報の出し手サポートとしてのメディア側に無いからである。ユーザー自身が、自分達のコミュニティ活動の結果として、規範をコミュニティ共通コードとして自己生成して自律運用する。この状態に入ったコミュニティとユーザーに外から、「おしゃれなデザインのもの作りました。そしてかっこいい広告つけました。だから買ってね?」と言ってもそれは届かない。「それは君たちの規範だよね。君たちが君たちの理屈でかっこいいと思ってるだけだよね。それは君たちのもので僕たちにはどうでもいいもので興味ないからあっち行ってね。」となる。そりゃそうだ。コードが完全にズレているのだとしたら、メディア接触があっても広告(的なもの)は効かない。また、メディア自体が持っている基本的な空気が自分たちと異なると捉えられると、メディアごと利用対象から外される。テレビからネットへの移行、という外形構造変化的な話に限らない。ソーシャルマーケティング、口コミマーケティングというものもこのあたりを外すと当たり前であるが機能しない。バズらせよう!というものはいわゆる従来の広告より更に遠いかもしれない。いわゆるところのライフスタイルマーケティングの議論との根本的な違いはここで、コード自体の変化と生成モデルの変化である。分かりやすく日本語にすると、「自分たちの欲しいもの、自分たちがいいと思うものは自分たちで決める。なんなら作る。」。いろいろあってお流れになってしまったが、初音ミクをケースにしてこの消費コード生成と規範運用のスキーム及び市場規模構造を一式整理してみようとの出版企画があった。最初は、市場規模良く分からんから数え上げて実体化させてみると面白いよねぇ、という話であったが、よくよく掘り下げて考えてみると、要は上記のようなメカニズムの新しさを整理してみたいという企画であったと振り返られる。CGM文化云々という文化思想論は脇に置いたとしても、どう捉えても新しいメディア/ビジネススキームにしか見えない。■コミュニティコードから派生するコンテンツとメディア(と商品)超会議3で企業ブースがそう浮いて見えなかったのは、こういうお祭りの中で、一緒になって遊んでみる、というのはコードを一時的に揃えるにはおそらく機能しやすいからであろう。アイス最中の前で縄跳びするのは、プロモーションとしては普通の意味ではなんら機能していないが、「一緒に遊んでくれた近所のおにいさん/おじちゃん」としては機能する。とりあえず輪の中に入るまでは出来る。ここから日常レベルで普通の意味で機能する形に持っていきたいのなら、・コミュニケーションコードを合わせる・プロダクトコードを合わせるのいずれか、あるいは両方が必要になる。コンテクストコードの合わないものは入っていけない。また、キャラクターアイコンに初音ミクを採用しました、ということでもない。それは一要素でしかなく、コードを間違えたらむしろ誤用になり逆効果となる。ケースとメカニズムを整理してると、フィリップコトラーあたりのチャネル最適化の意識が強かったモデル、デイヴィット・A・アーカーやケビン・ケラーあたりのブランドイメージを軸としたモデルともどうも違う風景が出てくる。"After"の状況整理をするに、プロダクトアウトのアプローチもマーケットインのアプローチもどちらもあるのだが、いずれにしても基本的な発想と考え方が変わってるように見えている。市場を支配する基本ルールとコミュニケーションコードがユーザーの手にあり、高度にコンテクストが編まれてる状況にどう関わっていけばいいのか。この類の話がおそらくはニコニコ界隈などに留まらないだろうことは、基本コードが違う集団特定と観察記述が出来ました!とのストーリーで話題になったマイルドヤンキー論がまさにそうではなかろうか。...






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